聴覚障害者を助ける字幕制作者になるのなら

今回は「聞こえない状態を助けるための字幕をつくる」とは、どういうことかを考えてみましょう。

そう言われてまず思い浮かぶのが、話されている言葉の内容を文字にすることではないでしょうか?

でもちょっと考えてみてください。

“音として発せられている言葉の内容をそのまま文字にする”というだけで、それを通して映像作品を理解している方々にとって最適な情報となっているでしょうか?

もともと声として発することが前提の言葉の場合、映像上に文字とした並べた場合の読みやすさまでは考慮されていません。同じ内容の言葉でも、視覚から入ったものと聴覚から入ったものでは感覚的な違いが発生することはよくありますよね。試しに、音がない状態でしゃべり言葉をそのまま忠実に文字列にしたものから、話された言葉と同じニュアンスや意味を読み取れるかを実験してみてください。

そして、

声のニュアンスと文字で見た際のニュアンスは一致しているでしょうか?

さらに誰がしゃべったかがわからない状態だどうなるでしょう?

言葉以外の音の内容を伝える方法はどうすべきでしょう?

使う文字は作品内容に対してはどうあるべきでしょう?

こういったことを出たとこ任せで文字にして並べたら、画面を文字の混沌で覆ってしまうことなるのではないでしょうか。

もしそうなったとき、制作者はいったい何をよりどころに情報整理を行うことがベストなのでしょう?

ほかの言語を誰でもわかるような母国語の字幕にすることと、聞こえない人が音の内容を理解できるような字幕をつくることを比較してみると、ターゲットが違うだけで、実はその性質が似通っていることがおぼろげに理解できるかと思います。

外国語の代わりに“すべての音声”という情報を、音がなくても理解できるように字幕というインターフェースとして構築する。そのためには、わかりやすく、おもしろく、どう作品と一体化して、音の内容や魅力、そして情報を引き出せる文字表示としていくかが重要なのです。

そう考えると、まず、話される言葉を確実に聞き取り、それによって伝えられている意味をまちがいなく把握することは制作者の絶対条件だということがおわかりいただけるでしょう。

次に、作品の意図や背景にまで切りこめる気構えと理解力が問われます。さらに、作品内で数々の音が持つ情報や意味合いを少なからず分析し、言葉として表現する力が必要となるでしょう。

最終的には日本語の字幕なのですから、当然、作品内容から“必要情報”を整理・取捨選択するために、映像作品の制作者と同等かそれ以上の日本語力も要求されるでしょうし、表示自体のクオリティー確保には印刷物の編集者と変わらぬ文字のコントロールスキルもなくてはなりません。

「聞こえない場合用の字幕は文字起こしができれば大丈夫! 」という考えは、制作者への入口にはよいのかもしれません。でも、実際に公のものに携わるのであれば、今回述べた程度のスキルを獲得する覚悟は必要なのです。

なぜそんな必要があるのかに理解が及ばないのであれば、残念ながらこの世界へは踏み込まないほうがよいでしょう。字幕だけを頼って映像を理解している方々が気の毒ですから。